2015/10/23

映画『マチルダ』

映画『マチルダ』
何気なく目にした1996年のアメリカ映画だが、見終わった後に、どうもひっかかるものがあり、
まるで喉の奥に小骨がささっているかのようである。

マチルダというリボンの似合う、可愛らしい少女が主人公。

赤ん坊は、その生まれ落ちる家庭や家族、環境を決して選べないが、
そうだとわかっていても、マチルダは特に不運な子だった。

家庭は俗にいうB層の貧困家庭。学がなく反知性的、享楽的で拝金主義。

ネグレクトに暴力、暴言・・・マチルダへの両親や兄の態度は、非道な虐待そのものであった。

一方でマチルダは、トンビがタカを産んだというのはこのことで、
赤ん坊の頃からとびぬけた才能を発し(両親は気づかない)
抜群の知性を持ち(ここでも両親は無関心)、
6歳にして図書館に足げく通い(両親はやはり気づかない)、ありとあらゆる本を読みあさり、
スポンジが水分を吸収するかのように、様々な知識を得て、
その才能に磨きをかけていった。


印象深かったのは、この映画に出てくる、家族の「文化」の低俗さ。
象徴的なのは父親のステレオタイプにまみれた、稚拙な差別的発言。

父親がマチルダの本を取り上げ「こんなものを読むんじゃない」と怒鳴りつける。
それをマチルダが拒否すると、

「子供は悪 大人が善、子供は間違い、大人が正しい」と平然と言い放つ。

そして本を奪い取り、放り投げる。これは立派な虐待行為だ。
普通の子であれば、いっぺんに恐怖を植付けられ心理的ダメージを与えられる。
これを繰り返されれば、本を読む気力も起きぬことだろう。
禁止されればなおのこと。子供にとって、どんな親でも、親は「絶対の存在」なのだから・・・

母親の態度も底抜けに悪い。学校から帰ってきたマチルダに対しての無関心。
マチルダが一生懸命、学校での出来事を話しても、聞く耳も持たず、
受話器片手に、もう一方の手は片方の耳をふさぎ、
友人とエステや豊胸手術の話で盛り上がり、完全無視をきめこんでいる。
マチルダが「なんで話をきいてくれないの」と聞くと、「重要な話をしてるのよ!」と突っ返す。
「自分が学校どうだった?と聞いてきたんじゃない」ともっともなことを言い返すと、
ばつが悪そうに「それは社交辞令でいったのよ」などと子供に言う・・・

これも子供の人権を無視した、卑劣な虐待行為だと、私は思う。

この家庭での、食事の質や行儀の悪さ、いい加減さも目に余る。
こういう家庭では、普通の子であれば常に栄養失調状態であり、
大切な発育期に重要な栄養素も欠け、しいては子供の知能や性格、健康面、その後の将来にも悪影響を及ぼす可能性があるであろう。
恐らく、朝食や夕食を家族そろって食べ、談笑しながら団らんをするという慣習もないだろうから、
家族間の意思疎通も希薄なものとなり、その様な場で培われる子供の情緒やコミュニケーション能力も貧弱なものになるだろう。

極めつけは「テレビ」の場面だった。

父親、母親、兄はよってたかってのテレビ好き。
B層の好みそうな下劣なお笑い番組を見て、添加物盛り盛りの菓子やジュースを飲食しながら、下品な笑い声をあげている。
その傍らで、ソファにちょこんと座り、静かに本を読むマチルダに、父親は「そんなくだらんものばかりよむんじゃない」と本を取り上げ、自分たちと同じように下品なテレビ番組を見ることを強いる。

マチルダが「そんなものばかりみていると馬鹿になるわよ」とさらりと悟し、頑なに拒否すると、
「家族ならお前も見ろ!」と小さな女の子の顔をむんずとつかみ、両手で固定し、強制的にテレビを見させた。

賢いマチルダは、学の低い粗野な両親や兄にとって、自分たちの貧弱な知性を顕在化し、その事実を否応なしに確認させる憎き存在。イコール、自分たちの存在を脅かす「脅威」そのものなのである。

反知性主義的享楽に溺れる集団の、時に顕著となる仲間意識は、同じ行動を共にすることで強化される。
同じような服を着(ファッションセンス)、メイクをし、言葉を使い、時に逸脱行為をするのは、お互いが同じ「仲間」=いつメン(いつものメンバー)であることを確認し、互いを安心させる。
だから、両親と兄は自分たちの保身と安心感のためにも、
「家族」としてマチルダには強制してでもテレビをみさせる必要があった。
ひるがえって、家族の歪んだ愛の表現だったのかもしれない。

しかし、嫌だということを無理やり強制させるのも、私は子供の人権を無視した虐待行為だと思う。


こういったマチルダへの憎悪と虐待行為を促す原因となっている、両親たちのコンプレックスが垣間見れたシーンがあった。

マチルダを心配し家庭訪問してきたハニー先生。美しく聡明な女性の教師である。
ここでも、両親はおかまいなしに、スポーツ観戦のためテレビに釘付け。
それでも、大切なマチルダのことだから・と面談を要求する先生に対し、
「テレビを消すと女房の機嫌が悪くなるぜ」といいながら、しぶしぶテレビを消す夫。

夫の言う通り、すっかり機嫌を損ねた妻は、ハニー先生にこう言い捨てる。
「大学を出ているからって、偉そうにするんじゃない」

そして、「インテリさん、あんたより私のほうが幸せだ。こうして美貌を手にし、金持ちと結婚している。あんたはただしけた子供の相手をしているだけ」だと言い放った。
しかしこれこそが、この両親の秘めているコンプレックスであり、それが源泉となって生まれる視野狭窄的ステレオタイプの発想、表現そのものだと感じた。

学の無い自分・・いや、もしかしたら、彼らの両親もまた同じで、そのうえ貧困家庭でもあり、学べる環境が備わっていなかったのかもしれない。
親の学力の低さや貧困状況は、往々にして連鎖するという。
その家族特有の「文化」もそうだ。言葉使いや思想、癖、食事の好み・・こういったものが文化として、家族で代々受け継がれていく。
両親が太っており、子供も同じく肥満体型なのは、遺伝というよりも、食生活に原因があると聞いたことがある。
それは時に深層意識にまで到達するような、刻印(スティグマ)として・・・

若い頃は知性や学問などそんなものに頼らなくとも、気合と勢いで生きてこれたかもしれないが、ミドル世代に突入し、気合と勢いだけではどうにもならない現実を、まじまじと見せつけられる。
そういう苛立ちや不安、恐怖感といったものが、自分達よりひ弱で無力な子供たちに、虐待という形で向けられるのではなかろうか。



これは子供向けの映画であるから、天才少女であり超能力をも備えたマチルダは、幾多の困難も乗り切っていく。

しかし、現実は、そうはいかない。
私は、このような劣悪極まりない家庭や環境に身をゆだねるしかない、多くの不幸な子供たちのことを考えずにはいられなかった。
現実には超能力も、魔法もないのだから・・

しかし、唯一救いだったのは、良識と愛の備わった先生の存在だった。

現実にも、ハニー先生の様な存在に、救われる子供たちは沢山いるだろう。


テレビの場面で思い出したことは、私も両親がテレビを見て大声でゲラゲラ笑うその姿が、心底いやだったということだ。
「そんなものばかりみてたら頭が腐る」と吐き捨てたこともある。

テレビのおかげで、家族の会話もあまりなかったように思う。
皆、一様に画面に向いて、お互いの顔も見ず、話などしなかったからだ。
テレビ以外にも、テレビゲームについても同様の憎い思いがある。
だから、私は今でもテレビとテレビゲームは好きではない。
人間が、魂と魂を触れ合う機会を、これらは奪うものだと、今でも考えている。
(これに関しゲーム好きの人が反論するには、ゲームを通して互いのコミュニケーションをとっているのだというが・・)


冒頭の「ひっかかり」は、この幼少期に感じた家族の違和感、
深層意識に置き去りにされたその頃の憤りや悲しみのようなもの、だったのかもしれない。
マチルダが、テレビを念力で破壊したときは、おもわず微笑んでしまったが、
幼いころの私も、同じことをしたかったのだろうと思う。

1996年に放映されたこの映画も、
既に到来していた拝金主義・テレビ信仰時代のアンチテーゼだったのかもしれないと思うと、
子供向けとはいえ、なかなか深い作品だったと思うのである。


そして何より、子供にとって親は唯一無二の存在であり、絶対なのだということだ。
どんな親でも、子供はかばうのだ。それが虐待する親であっても・・

マチルダの様に天才でなくても、超能力がなくても、
その家庭の低俗な文化に溺れることなく、人知れず知性を磨き、知力を備えておけば、
いつか、そこから脱出し、飛び立つ時がやって来たとき、
それらの力が自分を助けてくれるものだ。


とくに、今、この国に蔓延る、反知性主義的、野蛮な空気に対し、
「知は力なり」と強く思うのである。