Kyon {Silence Of Monochrome}

Kyon {Silence Of Monochrome}
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2014/10/26

ニンゲンとは?

地元の図書館に立ち寄ると、時々「リサイクル資料」というものが出されていて、
私はそこで一冊の本を頂いてきた。
『子ぎつねヘレンがのこしたもの』

内容をみると、それはそれは可愛らしい
子犬のような子ぎつねの写真。
その写真に魅かれてその本を手に取ったと言ったほうが正しい。
しかし、通勤途中の電車の中で読み進めるうちに
これは、家で、ひとりきりで、じっくりと読まねばならぬ本だと悟った。

子供用とあるが、むしろ現代の大人が読むべき本。


同時期に、高校の頃に見事にはまった『寄生獣』の人気が再び再燃しており、
私も懐かしくなって、全巻読み終えた直後だった。
そして、思春期の頃からもやもやと考えていたこと、
疑念に思っていたことが、またふつふつとこころと頭を悩ませていた。

地球上で一番邪悪で汚いものはニンゲンなのではないか?
ニンゲンこそ、最悪で、
漫画のセリフにもあるように『悪魔に一番近いもの』なのではないか?

そしてそういう種族のひとりである自分とは?


しかし、『子ぎつねヘレンがのこしたもの』を読み終えて、
こういう行動ができるのもニンゲンなのだと思った。

生まれて間もない小さな子ぎつね・・・耳も目も、生命線である嗅覚もきかない。
孤独な暗闇の中、恐怖と不安でいっぱいのこの子に
母親の様なぬくもりと、少しの幸せな時間を共有できたのは「人」であった。


当たり前のように毎日が過ぎていく。
当たり前のように生きている。
街は物や情報であふれ、欲望を常に掻き立てられたニンゲンは、
快楽をむさぼるかのように食い荒らす。
それら残骸の「毒」で、他の生物はその生命が脅かされて、
さらには、ニンゲンそのものも、あらゆる「生存競争」にさらされている。


強いものは勝ち、弱いものは負ける。
強いものは生き、弱いものは死ぬ。


野生の世界であれば、ヘレンの様な重度の障害をもったものは
死ぬ他に道がないであろう。

だが、ニンゲンの道には、そうした障害を抱えていても
生きてゆける道がある。


ヘレンが最後、少しでも愛を感じ幸せの中で旅立てたなら・・・
私が三年前出会い、四カ月で失った子猫のあずきの面影を想いながら、
そう願わずにはいられなかった。





2014/08/30

扉の向こう

絵を描くとき以外、音楽を聞かない。

というより、聞けなくなった・・という表現のほうがしっくりくるかもしれない。

音楽は、異なる自分を導く「鍵」のようなものだ。
異なる自分は、日常の自分とは違う。
日常とは合い入れない者である。


生きる為に仕事をする。自分にとっての日常である。
それは今も昔も変わらない。
その為の努力や人間関係を今ではもう拒否しないし、
違和感も感じない。
それなりの喜びもあり、楽しさもある。
ただ、そこにいる自分は、コアにいる「自分」とは確かに違う自分である。
ある一つのペルソナである。

鍵に導かれる自分は、絵を描く自分である。
それは、時間にも人間関係にも、金にも支配されない。
束縛されることを嫌う。
そういう自分と、日常の社会的存在としての自分は、
10代、20代の頃は常に齟齬を生み、
その不協和音に苦しんできた。


今はだいぶ「住み分け」ができてきている。
しかし、むやみにその扉を開けることはできない。
できないというか、したくないのだ。

だから、絵を描く自分の存在は、
日常・普通に接する人々に 明かすこともないし、
必要もないと思っている。


扉の向こうにいるのは、一番コアな自分である。
時に自我を凌駕するesであり、idである。
タナトスであり、エロスである。
感情であり、欲望である。


生きていくのに、絶妙なバランス感覚を要することは今も昔も変わらない。

ただ、「世間」というもの、「ヒト」というものに、
慣れてきたことには違いない。










2014/08/27

ミラーニューロン

【ミラーニューロン】という言葉がある。

目の前の対象の動作やしぐさなどを、見ているだけで、
脳内では同じことを「行っている」というのだ。
そしてそれは、無意識のうちに・・・

自分の知らない間に観察学習が行われているということだろうか。

たとえば「似たもの夫婦」という言葉があるように、
近しい人と思考や行動が似てくるのも、
こういった理由があるという。

「子は親の背中を見て育つ」というように、
子供の言動の背景には、やはり親の存在が大きい。


そう思うと、なるべくならば、
笑顔で明るく、裏表のない人を「対象」にしたいものだ。

そして、自分もそういう誰かの観察学習の「対象」になっているということを自覚すれば、
おのずと取りたい言動も定まってくるのではないか。




2014/06/20

強さ

本当の強さとは
戦いを挑むことではない

本当の強さとは
それを受け入れ 理解し
許せるということだと思う


少しづつ 歩んでいこう

人生は一度しかない

2014/05/02

猫達のことば

人間の言葉は猫には通じない。
もちろん、そうだ。

猫の言葉も、残念ながら、人間にはわからないことのほうが多い。

猫達もおそらく、そう感じていることだろう。
私たちのしてほしいことと、
ニンゲンがしてくれることには、なんだかちぐはぐなことが多いななぁ・・と、
思っていながらも我慢していること、多々あるだろう。


しかし猫達の素晴らしいところは、
それでも、彼女たちなりの愛情表現を、おくすることなく体当たりで表現してくれることである。

たとえば、信頼しあっている猫同志は、お互いの鼻をつんと触れさせる。
ニンゲンにそれが通じるかどうかはわからないけれど、
大好きなニンゲンにはとりあえず同じことをやってみる。

また猫達は愛着のあるものに身体をこすりつけることがある。
「大好き」というその表現が、またもやニンゲンに通じるかどうかはわからないけれど、
猫達のその「身体言語」で、『とっても大好きだよ~!』と言わんばかりに、
おでこや身体を、私たちにこすりつけてくる。


人間は様々な観察や研究等で、猫達のそういった感情表現をおおよそ理解しているから、
その「言葉」がある程度わかることができる。
しかし猫達がそれを知っているはずはなく、
だけども、そういう愛情表現を行ってくる・・行ってみるというその心意気に、
わたしはとても感動するのだ。
毎日、毎日、鼻をつんとされながら、おでこをごちんとされながら、
大したものだなぁ~と、感動している。


もし、そこに学びがあるとするならば、
人も、その関係性の中で、
とりあえず「あなたを信頼しています」といった思いや、
「あなたが好きです」といった感情を怖がらずに、
自分なりに表現してみることが、大切なのではないかということ。

どうせそんなことしても・・とか、そんなことを言っても・・
としり込みするのではなく、
言葉を持った人間同士、声に出してみるということが大切なのではないかと思う。


共通言語を持たない猫と人間であっても、こんなに深い愛情を感じることができるのだから、
人間同士、やってやれないことはない。











2014/01/29

ずっと、家族を待っている。

時が経つのは早いものだ。
最終公開日から、なんと1年も経ってしまっていた。
その間、私の生活には大なり小なり、変化があった。
それを記述するつもりはないし、必要も無いだろう。



寒い日々が続く。
我が家の猫達は、小さな電気ストーブの前に陣取り、
ぬくぬくと温まりながら、丸くなって眠っている。


今夜のニュースでは、久々に心が痛み、
治りきっていない傷に塩を塗り込むような思いがした。

厳寒の冬、福島の飯舘村。
2011年3月11日の原発事故で住民は避難を余儀なくされ、
残されたのは、家族同然のペット達・・・
今も家族の帰りを、ずっと、待っている。


映されたのは、一匹の犬。
避難先では動物を連れ込むことが許されなかった為、
大切な犬を連れていくことができなかった。

週に二回、様子を見に行く。
積雪で真っ白な景色、吐く息は白く、飲み水も凍る寒さの中で、
はちきれんばかりの「笑顔」(私にはそう見えた)を見せて駆け寄ろうとする犬。
とても甲斐甲斐しく、愛らしく・・・
雪の中、足は凍えて、体も小刻みに震えている・・・

別れ際に涙を見せる、老いた飼い主。
「できるなら連れて帰りたい」

犬もきっと、泣いていた。
涙を見せまいとして、顔を見せぬよう、陰に隠れたように見えた。
私にはそう見えてならなかった。

悪いのは、飼い主でも、もちろん残されたペット達のせいでもない。
悪いのは、あの日の原発事故。
そして、その「原発」を長い間許してきた、国。
私達・・・

だから私は、やはり原発を好きになれない。
その気持ちは今でもずっと、変わらない。


ぬくぬくと丸くなっている我が猫達を見て思う。
もしここが、ある日、居てはならない「強制避難区域」に指定されたら・・・
そうではなくても、地震等の災害で、住めないことになってしまったら・・・

避難先で「ペットはご遠慮ください」といわれてしまったら・・・

外でテントでもはって、この子達と過ごすのか?
可能であっても、長期的にみて現実的ではない。

では、「強制」の文字を恐れることなく、ここに居続けるのか?
いや、多分、ライフラインが止められて、経済活動の一切が無くなった町では、
食料にも水にもありつけなくなる。
そんな不安定極まりの無い中で、長く過ごすことはできないだろう・・・

あの原発事故により、断腸の思いで家族同様の動物達をおいてきた人々の思い、
残された動物達の恐怖、不安、悲しみ・・・

我が猫達も、私達の姿を追い求めて、毎朝毎晩、
涙無き涙を流し、
声にならぬ声を出し続けることだろう。
私自身も、怒りと悲しみと不安と・・・
それこそ、気が狂ってしまうかもしれない・・・


それでも、原発を続けなければならないのだろうか?
こんな悲しい思いを、そこいらに撒き散らしてまで。
それらは放射能と同様、見えないし、
人間は二つの目があっても、心の目で見ようとしなければ結局何も見えないから、
ほうっておけば、そのうち忘れ去ってしまうよ。
そういうことだろうか・・・
そういうことでいいのだろうか・・・

心に負った深い傷は、本当に実感をともなって痛むものだ。
心の目で見えた真実は、脳裏に焼き付き、消去も忘却もできない。
むしろ時とともに、より鮮明に蘇ってくることさえある。
それはとても苦しいことだ。

だがそれは、人が同じ過ちを繰り返さない為、その長き経験に基づいて、
人間自身に備わった、一つの重要な防衛本能なのかもしれぬ。




もうすぐ、都知事選。
一都民として参加し、
その行く末を、見守りたい・・・