2012/10/05

食は「命」、動物達は同じ「命」。

朝から、とある二つの報道に、ずっと心が囚われている。

一つは「食品ロス」の問題。
その量、年間500から800万トン。
米の年間生産量に匹敵するという。
賞味期限切れ等で廃棄される食品は、
加工品だけでも年間1200億円にのぼるのだとか。
食品ロスには「流通」「生産地」「消費者」三つの側面がある。
一番多いのは「消費者ロス」ではないかと経済学者はいう。
私達消費者が食べずに廃棄する分が大変深刻な量だということだ。
無駄な買い物はしていないか、冷蔵庫の中をいつも把握できているだろうか・・・
チェックポイントは沢山あると思うが、
ここで大事なのは、日々の食事に関して、
「素材から調理する」というのが大切ではないかと思う。
何が使われているのかわからない加工品は、
「生命」の存在を感じにくい。
毎日食事の際に言う「いただきます」は、
「大切な、尊い命を頂戴します。ありがとうございます。」
という気持ちの表れだと聞いたことがある。
そのとおりだと思う。
が、できあいの物や、加工品ばかりに頼る食卓は、その「命」が見えにくく、
「いただきます」の言葉も、そういう食事からは、ただの記号と化してしまうだろう。
食は身体を作るもの、命に繋がるもの、食は命そのものだ・という意識も、
そこでは芽生えにくいだろう。
そして「食」そのものが、だんだんと蔑ろに、
ぞんざいにされていってしまうのかもしれない。
それはまわりまわって、命の軽視に繋がりはしないだろうか?


そしてもう一つ・・・
動物の殺処分問題。
犬猫合わせて、この国では年間27万頭以上が殺されていくという。
その中には、飼い主の都合や、どうみてもワガママとしか言いようがない理由で、
毎日「動物愛護センター」に、持ち込まれていく。

とある老女のケースが紹介された。
今住んでいる場所では、規則で猫が飼えない・という。
そこで、泣く泣く3匹の、手塩をかけて育てた猫達を持ってきた。
その辺に放るわけにもいかず、どうしようもなかったという。
「この歳の猫は、結局、殺されることになるんですよ」と職員は言う。
持ち込む飼い主たちは何処かで『愛護』という言葉に救いを求めているのだろう。
その言葉により、自分を弁護させようとしているのかもしれない。
しかしそう名付いているどのセンターも、結局は、
全ての猫や犬を終生面倒見てくれるわけではなく、
その殆どが、ガスによって殺されていくのだ。

手塩にかけた猫達が「殺される」と聞かされても、
老女の気持ちは変わらないし、変れない。
そこで職員の最後の言葉が突き刺さった。
「この猫の不幸は、飼えないとわかっていた、その場所で飼われた時から、
始まっていたのかもしれませんね・・・」
厳しい言葉だが、長年飼い主達のありとあらゆる無謀で
無常な振る舞いを多く見てきた方だからこそ、
絞りだされた言葉だったのだろう。
非常に重く、悲痛な響きだった。

その住宅に住んでいたなら、きっと規則も前から知っていたはずでしょう、なのになぜ・・・?
そういう問いも職員からは投げ掛けられていた。
老女の答えは
「ただただ、可愛かった」と・・・

しかし、猫達の運命は、その結末はどうなのだろう?

猫達は、まだ幼い仔猫だったその時、
救われたことを幸せに感じていたことだろう。
やせ細っていたノミだらけの身体を癒してもらい、可愛がってもらい、
お腹一杯食べさせてくれたことを・・・
沢山、遊んでくれたことを・・・

最後に、老女は涙声で、
「今でも未練がある。沢山“遊んでもらった”から・・・」
と手を合わせていた。

 複雑な気持ちになるケースだった。
例えば病気で飼えなくなった、飼い主自身が亡くなってしまった・など、
どうしてもままならないケースもある。
この老女のケースは、老女の立場になって考えることも出来る。
1人身で寂しかったのかもしれない。
“遊んでくれた”という表現に、猫達への敬愛が感じられないこともない。
規則に従わなければ、老女が追いだされ路頭に迷っていたのかもしれない・・・
あの時、仔猫達を面倒見なければ、仔猫達はもっと短命だったのかもしれない・・・

だけど結局、猫達は、「人間の都合」で殺されていく。
生かすも殺すも人間次第、ということになっている、彼らの命・・・
そういう構図自体が許せないし、あまりにも残酷な現実だと思う。


「食品ロス」と「殺処分」、この二つの問題で、共通いているのは、
どちらも命を蔑ろにしているということ。
命を軽視している、または命の軽視に繋がっているということ。
自然や生命すら支配できるという人間のエゴと、
大量生産大量消費・経済利益優先社会の深い闇が根底にある。


「命」に繋がる・・・「命」そのものである食も、我々と同じ「命」を宿す動物達も、
そのシステムの中では商品でしかなく、
利益を生まなければ、不必要とされ、捨て去られていく。

捨てることに慣れてしまっている私達は、
捨てているその食品、その動物達に、
自分と同じ「命」があるということすら、忘れてしまっている。
いや、忘却した方が、心に痛みも感じることがなく、
その方が楽だということを本能的に知っているからこそ、
成るべくして、そうなったということかもしれない。

そうして、人の人による、「人の使い捨て社会」も現実に起こっている。
「戦争」は、その最たるものだと感じる。


人は「とりあえず生きるために、扱いの難しい事は、本能的・生理的に通常の意識から離れた、
遠い倉庫のような場所に、仮置きする」という。
簡潔に言えば、面倒なことは忘れ去る術を持っているということだろうか。
それは必然的な生活の術というか、
それがあるから、日常が普通に営めるということもいえるだろうが、
その影、その闇=忘れ去られた現実のなんと数が多く、悲しい実状の多いことか・・・
それらに臭いものにフタをするように生きている私達は、
私達の社会は、はたして健全といえるのだろうか?

私はそう思えない。
それらの歪は必ず存在し、そうした社会の闇は、
見えなくても隠されていても、心の隅に追いやられていても、
私達の心身の健康に、少なからず影響しているだろうと思う。

今が幸せ・というその時間が、
毎日の異常な大量食品ロスや、動物達の命と引き換えに成り立っているのだとしたら、
果たして本当に、幸せだろうか?
本当に、幸せで平和な社会なのだろうか?

私にはやはり、そうは思えない。