怒りの感情の裏には、悲しみが潜むという。
怒りに燃える炎の色は赤ではなく、もしかしたら、青い色をしているのかもしれない。
そしてそれは、涙の色にも似ている。
日本人が描く、怒りをモチーフにした心的風景を描いた絵には、
炎を包み込むように、円を描いたり、薄いモヤを描いたりするものが多いという。
燃え盛る炎を、繭でふわりと覆うようなイメージだ。
それは文化的背景もあるだろうが、直接的に怒りを表す事をためらい、または抑圧し、
それでも微笑もうとする、健気な心の表出だと思う。
しかし、繭のようなモヤに包まれたその中身は、やはり炎である。
場合によっては、それを感じている自分を隠す必要はあったとしても、恥じる事はない。
素直に感じるべき、大切な感情だ。
自分が侮蔑された時、または裏切られた時に感じる悲しみや怒りや痛みは正当なものだ。
そんな事を感じてはいけない、考えてはならないと否定してはいけないと思う。
人はみな「自己愛」を持って生きている。
最終的に自分を慈しみ、想い、愛するのは自分自身だ。
自分を欺いたもの、傷つけたものに怒りを感じ、悲しみを感じるその心を、
あからさまに表現する必要もなければ、隠ぺいし抑圧し、否定する必要もない。
ただ、その炎を、たとえば「昇華」作業の様に、
創作への燃料として、文字通り「消火」させてしまうとか、
自分自身の過去・現在を通して未来をも見つめ直す、
「踊り場的」な時間にかえたら良いと思う。
もしかしたら、その炎はやがて、凍てついた心を溶かし、
凍えた精神を優しく温めてくれるかもしれない。
自分の身のまわりに起こりうる事象には、きっと何らかの理由があり、教えがあると思う。
「因果応報」という言葉もある。
謙虚に物事や言動を俯瞰してみるという姿勢は大切だろうと思う。
辛くても、素直に怒り、涙し、感じる事が出来たなら、
きっと心の暗闇の奥底に光り輝く、大切なものが見えてくる。
そして光は、闇が濃い程に美しく、輝くものだ。
2012/01/19
2012/01/10
舞台
ひっそりと穏やかに過ごしているつもりが、
突然、舞台に引きずり出される事がある。
心理劇で言えば、突如、補助自我の役目を求められるような・・
こちらは一切望んでいないにも関わらず・・
人は、ひとりでは生きていないのだ・という事を、
まざまざと見せつけられたような出来事に遭遇する。
それは、過去の自分が自覚の有無にかかわらず撒いた種がいつの間にか発芽し、
それは時には甘く美味であり、時には歪で苦い味のする実をつけていたりするようなものだ。
種はいつ撒かれたのか、自分では定かではなくても、
確実に人の心に、関係性に、人生の道端に撒かれており、
そのうち発芽する。
舞台に引きずりだされたとはいえ、自分の配役が今一掴めない事もある。
自分の人生においては、自分が主人公ではあるが、
時に、他者の人生において、キューピットになったり、
黒子になったり、アニマ・アニムスとなったり、
トリックスターとなったり、老賢者という配役をになったりもする。
人生には人の数だけ舞台があり、配役がある。
苦虫を噛みしめるような配役をつかまされても、
一歩舞台を降りれば、又違う舞台において、
違う仮面を被って、綺麗な衣服をまとい、
他人を様々な補助自我に用いながら、笑っていたりもする。
人間関係とは、そのような舞台の入り組んだ姿そのもののような気がする。
「お互い様」そのような言葉が、目の前にちらちらとうつる・・
日々の生の中で、稲妻のように降りかかる災難や障害・・
これらは、そうした「舞台」の存在を顕在化するものだと思う。
人が人である限り、人の間で生きる「人間」である限り、
常に誰かの舞台に配役され、
自分自身の舞台においても同時に主役を演じている最中だという事を
忘れてはならないという、ある種の警告のようにも感じる。
台本も無く、セリフも無い、エンドレスの舞台である。
まずは演じる事を楽しむ事が必要だろう。
演じる時に使う仮面=ペルソナは面ともとれる。
面は、メンと同時にオモテともよめる。
仮面を被った私も同時に「私」自身なのだ。
オモテがあればウラもある。ウラの存在に動じることはない。
人間はそういうものの表裏一体で生きていく。
そして、多くの舞台では「仮面」が必要になってくる。
突然、舞台に引きずり出される事がある。
心理劇で言えば、突如、補助自我の役目を求められるような・・
こちらは一切望んでいないにも関わらず・・
人は、ひとりでは生きていないのだ・という事を、
まざまざと見せつけられたような出来事に遭遇する。
それは、過去の自分が自覚の有無にかかわらず撒いた種がいつの間にか発芽し、
それは時には甘く美味であり、時には歪で苦い味のする実をつけていたりするようなものだ。
種はいつ撒かれたのか、自分では定かではなくても、
確実に人の心に、関係性に、人生の道端に撒かれており、
そのうち発芽する。
舞台に引きずりだされたとはいえ、自分の配役が今一掴めない事もある。
自分の人生においては、自分が主人公ではあるが、
時に、他者の人生において、キューピットになったり、
黒子になったり、アニマ・アニムスとなったり、
トリックスターとなったり、老賢者という配役をになったりもする。
人生には人の数だけ舞台があり、配役がある。
苦虫を噛みしめるような配役をつかまされても、
一歩舞台を降りれば、又違う舞台において、
違う仮面を被って、綺麗な衣服をまとい、
他人を様々な補助自我に用いながら、笑っていたりもする。
人間関係とは、そのような舞台の入り組んだ姿そのもののような気がする。
「お互い様」そのような言葉が、目の前にちらちらとうつる・・
日々の生の中で、稲妻のように降りかかる災難や障害・・
これらは、そうした「舞台」の存在を顕在化するものだと思う。
人が人である限り、人の間で生きる「人間」である限り、
常に誰かの舞台に配役され、
自分自身の舞台においても同時に主役を演じている最中だという事を
忘れてはならないという、ある種の警告のようにも感じる。
台本も無く、セリフも無い、エンドレスの舞台である。
まずは演じる事を楽しむ事が必要だろう。
演じる時に使う仮面=ペルソナは面ともとれる。
面は、メンと同時にオモテともよめる。
仮面を被った私も同時に「私」自身なのだ。
オモテがあればウラもある。ウラの存在に動じることはない。
人間はそういうものの表裏一体で生きていく。
そして、多くの舞台では「仮面」が必要になってくる。
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