2011/07/22

思考という名の嗜好品

自分が抱く、ある物事や人物への嫌悪感や苦手意識は、
どこから来るものだろうと思う時がある。
自我の底から湧きあがってきているものなのか、
本能からきているものなのか、
客観的な判断によるものなのか、
それとも、刷り込まれた「意識」なのか。

意識をむき続けていると、
そのうち玉ねぎの様に、芯も無くなり、
何もない「虚無」へと落ちるようで怖くなる。
それは自分の自明性をも揺るがす。
存在するはずの思考そのものが、存在せずに、
有るはずの知識は、全て借りものの様に感じてしまう。
それは誰かから教えられたり、書物で得たり、
今なら、ネットやテレビ・・様々なメディアを介して得た知識であったり・・、
本当の自分から湧きあがっている、真の自分の思考とは何処にあるのだろう。
その答えは多分、永遠に見つからない気がする・・。

一つ解るのは、思考や言葉はその産まれが何処であろうと、
自分というフィルターを一度は通り、濾過されて発せられるということ。
経験がお湯の温度だとしたら、その経験値や、経験の解釈などにより、
濃度も味もそれぞれ、それこそ毎日の様にころころと変わる。
濾過されたものを再度飲みほしてみれば、意外と味わい深いことにも気づく。
思考という名の嗜好品とでもいう感じだろうか。
 そして、お茶の種類は色々とあった方が、日々もささやかに華やかになる。

難しいことは考えずに、とりあえず、
豆や茶葉を仕入れるつもりで、
今日も知識の森へと入ろうか・・。

2011/07/03

崇高な魂たちに仕えたい

メメント・モリという言葉がある。
「死を思え」・・・
「自分が死すべきものだ」と言う事を忘れずに、
限りある人生を楽しもう・という思いがそこにある。

人は常に死を思い、恐れるが、
その恐れを「死ぬまでにこれだけはしておこう!」などと
前向きな動機にも転換し、生きて行ける。
それは人間の勇気や知恵、思考の結晶だとも思う。

一方で、本能的な危機感は常に備えているとしても、
動物達は常時死を恐れたり、死を思う事はないだろう・・。

前者=死を思って生きる事が果たして高次なのか、良い事なのか
・・時々解らなくなる。

時に死をも美化しようとする人の有り様を見て、
動物達の方が、遥かに清く、崇高にみえてしまうのは、
私の幻視に過ぎないのかもしれない・・。

しかし少なくとも、我猫達を毎日見ていて、
彼女達が私達と違う次元で生きていると思う以上は、
人間よりも下等だとは微塵も思わない。

むしろ、気高く尊い、そして愛らしい猫達の為に、
私個人は、彼女達の給仕係であり、献身的な世話役でありたいと、
ずっと、永遠にそうでありたいと、
心から願う者である。