2010/02/26

見守るもの

一年ほど前から、植物を種から育てるようになりました。
最初は、愛猫ワサビの為の、キャットグラス作りだったのですが、
花が咲く植物を育てたいと思い、
初めは百日草を育てて、何とか美しい花を見る事が出来ました。
それから、オジギソウ、ラベンダーと続けて種をまき、
オジギソウは今は葉を落として冬眠中です。
ラベンダーは沢山種をまいたのに、
発芽したのはわずか2つでしたが、それは可愛く寄り添って、
春の訪れをじっと待っています。

そして、ストロベリーキャンドルという植物の種をまきました。
蝋燭のような形の華奢で可愛らしい花が咲くはずなのですが、
まいた時期が悪かったのか、発芽して元気よく育っているなと安心したのもつかの間、
急に枯れ出してしまったのです。
それを見た時は何だかとても寂しい気分になり、自分が悪いように感じてしまいました。

それでもあきらめずに、毎日お水をあげていたら、
しばらくして、枯れた芽の内側に鮮やかな緑色が見え始めてきました。
新しい芽が出てきたのです。
枯れた芽に守られながら、それはすくすくと育っていきます。
それはまるで、親子のようにも見えました。
 冬の寒さから、新しい芽を包み隠すようにしっかりと根ずくその枯れた芽は、
子供を守ろうとする親の姿にどうしても重なってしまい、
とても切ない気持になりました。

自分はこれまでに親に対して何か恩返しをしてきただろうか。
それどころか、未だに甘えて減らず口を叩いているではないか。

そう思うと自己嫌悪に落ちつつ、
しかしだからといって今から良い孝行娘になろう、という感じにもなりません。
そうなる為の人格も無ければ、経済力も無いのが現実なのです。
その気持ちをしっかりと受け止めつつ、
じっくりと、これから孝行していければ、それが最善と思います。

まず「親」というものを知り、その偉大さを感じる、そして自分の未熟さを直視する。
それは見えてるようで見えていない、
あるいは見えているのだけれども無視してしまっている事のように思います。

感じた切なさは変わりたいという思いの表れです。
人間にとって避けられない老いと死に対して切実に向き合う為にも、
これまで誰が育ててくれたのかと考え、
親に限らず人生の節々で出会えた恩人達にも思いを寄せて、
人が人と関わりあって行く事の大切さや素晴らしさを改めて考える事は、
とても良い事なんだ、と小さな命達に教わったような気がします。


2010/02/25

伏線

人生はいくつもの短編集が、折り重なって出来ているように思う事があります。

「バタフライ エフェクト」=1羽の蝶の羽ばたきがやがて嵐となる、そんな言葉がありますが、
ある些細な変化は、これから起こるであろう次の物語の伏線かもしれません。

その事に気付き、謎かけを解きながら歩いて行くのが、
人生の醍醐味なのかもしれません。

ただ、物語が全てアットホームだったり、ハッピーエンドであるとは限らないのです。
その中身や結末は、冬のように深々と冷え切っているのかもしれない。
そう思ってしまうと、足がすくんでしまう時もあります。

しかし、人間も自然の一部であるならば、
木々がそっくり葉を落とし、寂しげな風景になる冬の中にも、
そこに新しい命の息吹は必ずあるだろうし、
やがて、春の爽やかな風が心地よく世界を包みだすように、、
辛い中でも、いつか小さな鮮やかな「希望」が芽吹くだろうと思います。
そして、そう信じて生きて行く事が大切であろうし、
そうあって欲しいと、切に願います。

2010/02/20

雨が好きになった日


忘れもしない、雨の思い出です。
2006年FUJI ROCK。初参加でした。
意気揚々と前日から新潟に入って、
まだ何も知らない私はあろうことか薄着で装備も少なく・・・

2006年は、フジ史上最も雨の多い年で、
朝から晩まで、3日間、空はずっと泣きどおしでした。
何日目かは忘れてしまいましたが、
たしか夜も本番になってきた頃、
約1万人収容するホワイトステージで1人でライブを見ようと、
(フジロックでは巨大な野外ステージが5つ程用意されています)
雨が容赦なく降りしきる中、椅子に座って小さくなって耐えていると、、
とうとう稲妻が恐ろしい轟音と共に激しく光り、
ああ、私はここで感電死するのではないだろうか、と
本気で怖かったのを覚えています。

簡易的な雨具は全く役立たず、凍えながら
雨の中でカレーを食べていると(屋根が無いので)
カレーが段々味噌汁のように薄まって行く・・
こんなにも雨に打たれることが一生のうちにあるだろうか、
という程に、雨に打たれ続けていました。

それでも、どうしても見たかったバンド、NewOrderのライブが始まると、
それまでぐったりしていた周りの人たちも喚起し始め、
私もステージの近くでどろまみれで雨に打たれ、雨に歌いながら、
恍惚の中に、降りしきる雨までも、
感動の立役者になっているように感じていました。
この時から「雨」は気持ちの良いものとすりこまれてしまったように、
思います。

都会ではまずありえないであろう状況の連続に、
まだ初心者であった私はとても驚き、
最初はなんて過酷な野外フェスなんだろうと思いましたが、
2006年土砂降りの3日間を経験して、
何となく精神的なタフネスを得たように思います。
それは、そこに人間が今までないがしろにしてきた雄大な大自然と、
その絶大な力と、無くてはならない大好きな音楽が、
絶え間なくその空間と時間に、
惜しげなく 、そそがれ続けているからだろうと思います。

それからは装備も毎年着実にグレードアップしていき、
雨でも快適に、感動を味わえるようになりました。
学んだことは数多く、まずは自分の身は自分で守る大切さを、
身をもって知ったのでした。

 
しかし、やっぱり晴天のステージは心が躍ります。
今年もあと、5か月あまり・・
早いものです。

2010/02/14

郷愁

先日吉祥寺で見た斉藤真一氏の「瞽女と哀愁の旅路」展に非常に感動した私は、
早速「瞽女~盲目の旅芸人」を購入して読むことにしました。

10年を費やして越後の瞽女宿を旅し、書き綴られたその本は、
読んでいると、自分もその雪深い道を一緒に歩んでいるような錯覚におち、
囲炉裏を囲んで和やかに談話している中に、私もちょっとお邪魔させてもらっているような気分になります。
書かれたのは40年も前で、瞽女さんの歴史は300年にも及びますから、
時代背景など私の想像力では足りない部分が殆どです。
囲炉裏や、まきで沸かす風呂など入ったことがありませんし、
旅に興味が無いのもたたって、東京から殆ど出たことがありません。
祖母は仙台の出身でしたが、田舎の話は数えるほどしか聞いたことが無く、
今になって、もっと聞いておけばよかったと、後悔しています。
しかし斉藤氏の、穏やかで愛情と哀愁に満ちた文章のおかげで、
こんな私でも、すぐそばでお話を聞き、風景を見ているような臨場感が味わえるのでしょう。

越後といいますと、
特にこの時期から、「フジロック」という野外フェスが気にかかり、
それには毎年行っているのですが、
またこのようなきっかけで、越後に思いをはせるようになるとは想像していませんでした。
「フジロック」は、大変大きなロックフェスティバルで、
若者を中心にとっても盛り上がる、私たちにとっても重要なイベントなのですが、
それとは真逆の感性の中にある、
静寂と哀愁の旅路に、私は不思議ととても魅かれるのです。
できれば、同じ道筋とは行かないまでも、
斉藤氏が見てきたその瞽女の旅してきた路を見てみたい。
そんなことを考えていた時、ふっと栃木の田舎を思い出しました。

主人の田舎は栃木の山奥にあるのですが、
農業を営んでおり、その棚田は本当に見事なものです。
私は車で通る山道にいつも酔ってしまいとても苦手で、
その事ばかりを重く考えてしまうことが多かったのですが、
日本の原風景ともいえるあの素晴らしい景色を、
何故もっと目に焼き付け、感じようとしなかったのかと、反省しました。
そして帰る度に用意してくださる、食べきれないほどの沢山の御馳走。
これも有難く頂かなくてはなりません。
15キロ程もある荷物を背負い、長い雪の道を必死で歩いて、
訪れた家々で唄を歌い、村人を楽しませ、
そのお礼に差し出される沢山の御馳走に深々と頭を下げる瞽女さんの姿が、
私の胸を締め付けるようです。

吉祥寺での「出会い」が私の心に波紋を広げています。
東京で育ち田舎の無い私にとって、
郷愁とは一種憧れの感情であり、
それが身近になることによって、満たされる幸せがあります。
そして今年も行くであろう「フジロック」の新潟と、連れ合いの田舎の栃木への短い帰郷が、
私の心の眼ではいつもと違った風景に見えるだろうと思います。

2010/02/12

Webサイト更新しました

ホームページ、ギャラリー内・Nostalgiaのページに【契】という絵をUPしました。
これは、私の叔母の結婚式の写真の美しさに感銘を受けて描いたものです。

日本の美の象徴でもある「着物」にとても憧れます。
この美しさを描くには、
まだまだ勉強と時間が必要です。

2010/02/11

立ってみないと分からない

新しい仕事は、全く畑違いで、
教えてもらいながら、ゆっくりとやっていくので精一杯です。

前職ではずっと教える立場が続き、
初めてその仕事に就く人や、慣れなくて困っている人の気持ちを、
最終的には半分以上分忘れていたかもしれません。
そんな心で教えても、相手にはよく伝わらなかっただろうし、
困っている部下をもっと不安にさせてしまったのではないか、
と今になって反省しています。

今、全くの畑違いで初めての仕事にたじたじの自分を客観的に見て、
そんな過去の自分を恥ずかしく思っています。
後悔しても後の祭りですが、
その立場に立って見ないと見えてこない景色というものは、
人生において本当に沢山あると思います。
だから、簡単に物事は言えない、判断してはいけない。
それ程に、人1人の人生とは奥深いと思います。

「一生勉強」、「自分以外は皆師なり」という言葉が好きです。
そして、私の母はよくこう言います。
「人に会うと、必ず1つは良い話を聞く」

東西南北様々な土地を巡るのも素敵ですが、
会話やあるいは書物などで、色々な人の人生や心の中を旅させて頂くのも、
なかなか楽しいものです。

2010/02/10

再び赫

8日に母と見た斉藤真一氏の絵が忘れられず、
本日また1人で見に行ってしまいました。
7時頃まで展示を行っているようなので、
仕事帰りに、混み合った吉祥寺をいそいそと歩きながら、
ああ、絵に惚れ込むとはこういう事なんだなあ、としみじみ思いました。

絵もそうですが、私は斉藤氏のその語りかけるような穏やかな中に、
絵を描く者の中心の部分がしっかりと刻まれている文章にも魅かれています。

例えば子供の頃布団にもぐりながら、古い話を傍で聞かされているような、
そのうち、恍惚の中に夢の中へと落ちていくような、
そんな魅力に魅かれました。

個人的にノスタルジックなものには昔から魅了されやすいのですが、
斉藤氏の絵と文章に、更に憧れを抱きました。
物質的には豊かだったとは言えないその時代に、
現代希薄になってきている人間の絆や素朴な人情については、
かえって豊かだったのではないかと思い、
季節感や情緒などの奥深さを感じます。

絵に感情が吸い込まれ、そこをまるで旅しているような気分になり、
絵が泣いていれば、ともに悲しくなり、
苦悩していれば、心苦しくもなり、
笑顔でいれば、こちらもほっと安心する。

どこまでも真っすぐに伸びる道に不安と希望を抱き、
真っ赤に燃える陽を見て、一緒になって切なくなったりもする。

絵を見るとはこういう事なんだ、と知りました。


私はまだまだ、経験が浅すぎる。
そしていったい人の何を知っているのか、
それすらも曖昧になってしまいました。

生きて生き続けて、いつか古い古い話を語り、
そこに郷愁だけでない、「人間の話」が出来るように、
そして「人間の絵」が1枚でも描けるように、
これから沢山経験を積んで、多くの人と対話して行きたい、
そう思いました。

2010/02/07

「瞽女と哀愁の旅路」

私の好きな映画の一つに「吉原炎上」という1987年に公開された映画がありますが、
その冒頭で流れる絵がとても印象的で、心に残っています。
それは、吉原遊郭の煌びやかで豪華なイメージとは違い、
お金の為に身売りされた少女たちの苦悩や、
不安と悲しみに満ちた心模様がしみじみと伝わってくる絵画でした。

本日、母と久しぶりに吉祥寺へ出かけたのですが、
お昼を食べようと行きつけの店へ行く途中、
とても素敵な絵が目に留まりました。
「斉藤 真一展:瞽女(ごぜ)と哀愁の旅路」とあります。
入場料もとても良心的な100円でしたので、お昼を取るのにはちょっと早いし・と、
母と入ることにしました。

絵を見ている間、ずっと何か心に引っかかるものがあり、
それがハッキリしないまま、見続けていました。
その中で、特に印象的だったのは、
タイトルにもある「瞽女」さん達を描いた絵です。
瞽女とは、私は初めて知ったのですが、
盲目の女旅芸人の事だと書いてありました。
背景は北国のようですが、主に使われている鮮明な赤い色(実際には赫と表記されていました)がとても印象的で、女性たちの壮絶な生き様が突き刺すように伝わってくる感じでした。
どちらかといえば明るい印象の絵ではありません。
しかし怖さや不気味さというよりも、そこに古く懐かしい空気や人情のようなものを感じたのが不思議でした。

私の祖母も北国の出身でした。
素朴で明るくて暖かな人情を持った人でしたが、
時々聞いた故郷の思い出話が、今目の前にあるその絵と重なるように感じていました。
祖母も幼い頃、母に手をひかれてこの赫い太陽を見ていたのだろうか・と思い、
絵を身近に感じていました。
同時に、私が絵を描く為に足りない部分を気付かされたように思います。

目の前にある、例えば「瞽女」さんの絵には、
その女性たちの人生の断片が凝縮されて、にじみ出ているように感じ、
それを現実に見ているような錯覚に落ちるのです。
その北国の降りしきる雪や凍えるような寒さ、
積雪の上を歩く草鞋の音まで聞こえてくるような、そんな臨場感。

「人生」を一生懸命歩み、その重みと大切さを知り、積極的に対話してきた人であるからこそ、
描ける風景がそこにあると感じました。
そして、今は希薄になりつつある「人情」というものを信じ、
その良さを知っているからこそ、「心」を絵筆にして描けるだろうと思います。
今は無き祖母の人懐っこい笑顔が、頭の片隅から離れませんでした。

そして、絵を見ている間ずっとはなれなかった「ひっかかり」。
それは、パンフレットを見て気付いたのですが、
「吉原炎上」の冒頭に流れていた絵の作者が、斉藤真一氏だったのでした。

町に出れば何かがある。
今日の偶然の出会いに感謝しています。
また一つ、大切な事に気付かされました。
「人生」を描くにはまだまだ経験も乏しく、時間がかかりますが、
それを目標に描き続けていけば、いつかきっと小さな断片のような作品が描けると、
勇気付けられた気がします。
まず自分が「生きる」事に対してもっと関心を持ち、
様々な人の「生き様」に教えてもらおうと思います。

2010/02/03

ペルソナ

私がかつての激務から逃れられたと思ったら、
同じタイミングにして今度は連れ合いが仕事に追われる身となり、
人生の歯車は、そう易々と上手くは回らないものだなあと思うこの頃です。
温厚な連れ合いの表情が、時が経つにつれて険しくなっていく気がします。
それを見ていると、かつての私も、鬼のような顔を、
または酷く疲れ切った表情を、何度家族に向けてきたかしれません。

時々満員電車に身を固めて揺られながら、
これを毎日毎日繰り返していたら、
どんなに温厚な性格でも、平穏な性格でも、
心の中でどんよりとしたものが段々と溜まっていき、
それをどこかで吐き出さずにはいられないだろう、と思います。

人には「ペルソナ」(仮面)が必要で、
特に社会生活においては、ペルソナと肩書とを保持しているうちに、
その人の性格もそれに追随して形成されていくように思います。

私も管理職に就いていた頃は、
部下に注意や嫌なことを言わなければいけない場面が多く、
最初はそれがとても嫌で、食事も喉を通らない日々が続きました。
しかし時が経過していくにつれ、仕事にも慣れていき、
この嫌な言葉は「肩書」が言わせていて、私個人の言葉ではないのだ、と
自分で自分に弁解していました。
そのうちに、「仮面」もつけ慣れてきて、
「仮面」と「肩書」を使うことに何の違和感も感じない自分がいました。
むしろその方が仕事を円滑に執行していくには丁度良かったのです。
これは、社会人としてはむしろ普通の事なのかもしれません。

しかし、その職を離れて2年余り、家族が気付くほどに
顔つきや精神状態が変わっていきました。
自分の中で、再び絵を描けるようになったこと、これがとても大きな変化でした。
そしてあの「仮面」に、本当の自分まで飲みこまれそうになっていた事を、
改めて知ったのでした。

結論を言えば、
ペルソナのままで生きていくのが、私には合わなかったという事です。
ペルソナの使い方が下手だったのかもしれません。
それがもしかしたら、第二の自分であり、
第二の人生の幕開けということも大いにあり、
それがその人の幸せに繋がることだってあると思うので、
「仮面」と「肩書」がすべて悪いわけではないと思うのですが、
私は、これらから離脱できて、
幸せだった側だといえるでしょう。

連れ合いは、私と同じ道を行くのだろうか、
本音と建前の社会を上手く渡っていけるだろうか、
不安に思いつつ、連れ合いの持つ良い意味での「鈍感力」が、
良い道案内になってくれるような気がします。