私がかつての激務から逃れられたと思ったら、
同じタイミングにして今度は連れ合いが仕事に追われる身となり、
人生の歯車は、そう易々と上手くは回らないものだなあと思うこの頃です。
温厚な連れ合いの表情が、時が経つにつれて険しくなっていく気がします。
それを見ていると、かつての私も、鬼のような顔を、
または酷く疲れ切った表情を、何度家族に向けてきたかしれません。
時々満員電車に身を固めて揺られながら、
これを毎日毎日繰り返していたら、
どんなに温厚な性格でも、平穏な性格でも、
心の中でどんよりとしたものが段々と溜まっていき、
それをどこかで吐き出さずにはいられないだろう、と思います。
人には「ペルソナ」(仮面)が必要で、
特に社会生活においては、ペルソナと肩書とを保持しているうちに、
その人の性格もそれに追随して形成されていくように思います。
私も管理職に就いていた頃は、
部下に注意や嫌なことを言わなければいけない場面が多く、
最初はそれがとても嫌で、食事も喉を通らない日々が続きました。
しかし時が経過していくにつれ、仕事にも慣れていき、
この嫌な言葉は「肩書」が言わせていて、私個人の言葉ではないのだ、と
自分で自分に弁解していました。
そのうちに、「仮面」もつけ慣れてきて、
「仮面」と「肩書」を使うことに何の違和感も感じない自分がいました。
むしろその方が仕事を円滑に執行していくには丁度良かったのです。
これは、社会人としてはむしろ普通の事なのかもしれません。
しかし、その職を離れて2年余り、家族が気付くほどに
顔つきや精神状態が変わっていきました。
自分の中で、再び絵を描けるようになったこと、これがとても大きな変化でした。
そしてあの「仮面」に、本当の自分まで飲みこまれそうになっていた事を、
改めて知ったのでした。
結論を言えば、
ペルソナのままで生きていくのが、私には合わなかったという事です。
ペルソナの使い方が下手だったのかもしれません。
それがもしかしたら、第二の自分であり、
第二の人生の幕開けということも大いにあり、
それがその人の幸せに繋がることだってあると思うので、
「仮面」と「肩書」がすべて悪いわけではないと思うのですが、
私は、これらから離脱できて、
幸せだった側だといえるでしょう。
連れ合いは、私と同じ道を行くのだろうか、
本音と建前の社会を上手く渡っていけるだろうか、
不安に思いつつ、連れ合いの持つ良い意味での「鈍感力」が、
良い道案内になってくれるような気がします。